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2019年11月14日木曜日

精神の諸能力、精神と物質の関係、自由意志の問題などを学ぶことの意義は、(a)人間知性の成功と失敗例、(b)解決済と未解決問題の区別、(c)信念の暗黙の根拠、(d)言語の真の意味、(e)正しい論理などを考えさせ、解明へと動機づけることである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

心理学の教育

【精神の諸能力、精神と物質の関係、自由意志の問題などを学ぶことの意義は、(a)人間知性の成功と失敗例、(b)解決済と未解決問題の区別、(c)信念の暗黙の根拠、(d)言語の真の意味、(e)正しい論理などを考えさせ、解明へと動機づけることである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

 (5.4)心理学 追加。

 (5.3)論理学
    論理学によって思考の訓練をすることで、(a)曖昧な考えを明確に表現し、(b)暗黙の前提を明らかにし、(c)論理的一貫性の欠如から誤謬が発見できる。(d)また、誤った一般化を避けるための帰納論理学も必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
  (5.3.1)論理学の役割
   (a)自分の考えを言葉にしてみることによって、曖昧な考えを明確な命題に書き換え、互いに絡み合った推論を、個々の発展段階に書き改めるように強要する。
   (b)暗黙の前提
    こうすることで、暗黙の前提、仮定に注意を向け、明らかにすることができる。
   (c)論理的一貫性
    また、個々の意見がそれ自体においても、また相互間においても、矛盾しないようにさせる。
   (d)誤謬の発見
    以上のようにして、自分の考えに曖昧な形で含まれていた誤りに、気づくことができる。
  (5.3.2)規則と訓練
   人間の行為は、規則を覚え訓練することにより、技能が向上する。思考の訓練も同じであり、論理学によって正しい方法を身につける必要がある。
  (5.3.3)演繹的論理学と帰納的論理学
   (a)演繹的論理学の手助けで、間違った演繹をしないようにする。
   (b)帰納的論理学の手助けで、間違った概括化を犯さないようにする。
    (i)特に人は、自分自身の経験から一般的結論を引き出そうとする際に誤る。
    (ii)また、自分自身の観察や他人による観察を解釈して、ある一般命題から他の一般命題に論を進めて行く際に容易に誤りを犯す。

 (5.4)心理学
  (5.4.1)精神の能力の解明
   (a)精神的能力のなかのどれが単純なものであり、どれが複合的なものであるか。
   (b)高度な精神作用は、どの程度まで観念連合によって説明がつくのか。複合的能力の構成要素は、一体何であるのか。
   (c)観念連合以外の基本的な諸原理を、どこまで認めなければならないのか。
  (5.4.2)精神と物質の関係
   (a)物質は、精神の能力との関係においてのみ存在する観念であるのか。
   (b)あるいは、物質は精神とは独立して存在している事実なのか。もし、独立しているとすれば、その事実についてわれわれはどんな性質の知識を持つことができるのか。
   (c)知識の限界はどこにあるのか。
  (5.4.3)人間の自由意志の問題
   (a)人間の意志は自由であるのか。
   (b)それとも、人間の意志は、種々の原因によって決定されているのか。
  (5.4.4)時間と空間
   (a)時間・空間とは、現実に存在するものなのか。
   (b)時間・空間とは、感性的能力の形式なのか。
   (c)時間・空間とは、観念連合によって作り出された複合観念であるのか。
  (5.4.5)心理学の教育の効用
   (a)精神の能力、精神と物質の関係、自由意志の問題などについて、論争が実際にあることを知り、その論争の両陣営でどのようなことが主張されてきたかを概括的に知ることによって、以下の効用がある。
    (i)成功例と失敗例
     人間の知性の成功と失敗例を知ることができる。
    (ii)解決済と未解決問題の区別
     既に完全に解決のついた問題と、未解決な問題とを知ることができる。
   (b)論争があるような問題について考察することは、解決に向けての向上心を燃え立たせ、思考訓練にもなり、以下のような効用がある。
    (i)信念の根拠
     われわれの心の中の最も奥深い所にある確信の、根拠はいったい何なのかを考えさせる。
    (ii)言語の意味の解明
     習慣的に用いている語句の真の意味内容を考えさせる。また、言語の正確な使用を、益々強く求めるようになる。
    (iii)正しい論理の使用
     与えられた証明が正しいのかどうかを判断するとき、より注意深く、より厳密になる。

 「例えば、観念連合の法則がその一つであります。心理学は、そのような法則から成り立っている限り、――私はここでは法則そのものについて語っているのであって、議論の多いその適用についてではありません――化学と同じように実証的かつ確実な科学であり、科学として教えられるのにふさわしい学問であります。ところが、われわれが、以上のような既に容認されている真理の範囲を超えて、哲学の色々な学派の間で依然として論争されている諸問題、例えば、高度な精神作用はどの程度まで観念連合によって説明がつくか、他の基本的な諸原理をどこまで認めなければならないか、精神的能力のなかのどれが単純なものであり、どれが複合的なものであるか、そしてこの複合的能力の構成要素は一体何であるか、という類の問題、とりわけ、いみじくも「形而上学の大海」と言われた領域にまで乗り出して、例えば、時間・空間とは、われわれの無意識の印象のように、現実に存在するものなのか、あるいはカントによって主張されているようなわれわれの感性的能力の形式なのか、あるいはまた、観念連合によって作り出された複合観念であるのか、物質と精神はわれわれの能力との関係においてのみ存在する観念であるのか、あるいは独立して存在している事実なのか、もし後者であるならば、その事実についてわれわれはどんな性質の知識をもつことができるのであるか、またその知識の限界はどこにあるのか、人間の意志は自由であるのか、それとも種々の原因によって決定されているのか、更に、この二説の真の相違点は一体どこにあるのか、というこの種の問題、つまり、最も思考力に富んだ人々や、このような問題に専念して研究してきた人々の間でさえも未だに見解の一致を見るに到っていない問題に立ち入るならば、高度な思索を要求する領域に特に専念していないわれわれがこれらの問題の根底を究めようといかに努力しても、いかなる成果も期待しえないし、またその様な努力がなされるとも思われません。しかしながら、かかる論争が実際にあることを知り、その論争の両陣営でどのようなことが主張されてきたかを概括的に知ることも、一般教養教育の一部なのであります。人間の知性の成功と失敗、その完璧な成果とともにその挫折を知ることや、既に完全に解決のついた問題とともに、未解決な問題があることに気付くことも、教育上有益であります。多くの人々にとっては、このような論争の的となっている問題を概括的に見るだけで十分であるかもしれませんが、しかし教育制度というものは多数の人々のためにのみ存在するのではありません。それはまた、思想家として人の上に立つべき使命を担う人々の向上心を燃え立たせ、彼らの努力に手を貸す役割を果たさなければなりません。そして、実は、このような人々を教育するためには、あの形而上学的な論争によって与えられる思考訓練ほど有益なものは他にほとんどありません。と言いますのも、そのような論争は、本質的には、証拠の判定、信念の究極的根拠、われわれの心の中の最も奥深い所にある確信に根拠を与えるための諸条件、更にまた、われわれが幼児期以来あたかもすべて知り尽くしているかのように用いてきた語句で、しかも人間の言語の根底に位置するものであるにもかかわらず、形而上学者を除いては誰も完全に理解しようと努めなかった語句の真の意味内容に関わる問題であるからであります。形而上学的問題の研究の結果、どんな哲学的見解をもつようになるかは別として、その種の問題の議論を通じて、人は必ずものごとを理解しようとする意欲が更に強まり、思考と言語の正確な使用を益々強く求めるようになり、証明が一体どんな性質のものであるかを認識しようとする際、より注意深く、より厳密になります。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『教育について』,日本語書籍名『ミルの大学教育論』,4 科学教育,(6)心理学(精神科学),pp.56-58,お茶の水書房(1983),竹内一誠(訳))
(索引:心理学,精神の諸能力,精神と物質,自由意志,時間と空間)
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)

(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2017年12月26日火曜日

およそ意識のうちに現われるすべてのものは、潜勢的に存在している精神の能力が、作用として発現することで、意識されるものである。したがって、決して意識することができないなら、それは潜勢的にも存在しない。(ルネ・デカルト(1596-1650))

無意識とは何か?

【およそ意識のうちに現われるすべてのものは、潜勢的に存在している精神の能力が、作用として発現することで、意識されるものである。したがって、決して意識することができないなら、それは潜勢的にも存在しない。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 意識に現われるすべてのものは、精神の働き、言うなら精神の作用を、意識していると言える。また、すべての作用に対応して、われわれの精神の能力あるいは力能が、存在していると言える。しかし、能力あるいは力能については、言わば潜勢的に存在しており、われわれがある能力を使用しようとする場合に、ただちに、現実的に意識されるようなものなのである。したがって、決して意識することができないなら、それは潜勢的にも精神のうちには存在しない。
 「われわれのうちには、われわれのうちにそれがあるのと同じその瞬間にわれわれがそれを意識することがないようないかなる思惟も、ありえないのです。ですから、私は、精神は嬰児の身体に入りこむやすぐさま、思惟しはじめ、と同時に、自らの思惟を自らに意識する、ということを疑いません。そうした思惟の形象[ども]は記憶に刻みつけられることはありませんから、後になってからその事物を精神が、想起することはありませんが、よしそうだとしてもです。しかしながら、銘記すべきは、われわれの精神の働き、言うなら作用をこそ、われわれは常に現実的に意識しているということ、〔しかし〕われわれの精神の能力あるいは力能については、潜勢的にというならばともかく、常に[現実的に意識している]というわけではなく、すなわち、われわれが或る能力を使用しようとする場合には、その能力が精神のうちにあるとするならば、ただちに、われわれはそれを現実的に意識するというようになっているということです。だからこそ、その能力が精神のうちにあることを、われわれは、それについて意識することができないならば、否定することができるのです。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『省察 第四答弁』デカルト著作集[二]、pp.295-296、[廣田昌義・1993])


デカルト著作集(全4巻)



ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

ルネ・デカルト(1596-1650)
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